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韓国でクーデターは起こる?歴史や国家的背景から原因と可能性を予想!

政治
 
韓国・文在寅政権が、日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄を決めたことで、

 
北朝鮮との「赤化統一」路線に進むのではないかとの懸念が現実味を増していました。

 
 
 
北朝鮮は、GSOMIA破棄を歓迎しているはずなのに、けさ早く短距離弾道ミサイルを発射したが、

 
松川るい参議院議員が昨日の論考で分析したように、

 
「南北融和は行き過ぎると諸刃の剣」であり、

 
できる限り体制を護持したいのが本音であると推察すれば、

 
短距離ミサイルの発射は、統一に向けた、

 
ある種の主導権争いの一里塚と解釈できるかもしれません。

 
 
 
今回は、韓国でクーデターは起こる?

 
 
 
歴史や国家的背景から原因と可能性を予想!

 
 
 
についてまとめてみました。

 
 
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韓国でクーデターは起こる?チョグク国法務長官が突然の辞任!

https://twitter.com/HAKOCONNEMAN/status/1172345182500470785
韓国の曹国(チョ・グク)法務部長官が10月14日、辞意を表明しました。

 
 
 
就任35日目、家族の不正に検察の捜査の手が入る中での辞任でした。

 
 
 
背景を韓国観察者の鈴置高史氏が読み解いています。

 
 
 
――突然の辞任でした。

 
 
 
鈴置: 文在寅(ムン・ジェイン)政権を追い詰めたのは、

 
国民の多くを味方に付けた保守の大集会・デモでした。

 
 
 
決め手となったのは、開天節(建国記念日)の10月3日、

 
数十万人が集まって「曹国逮捕」「文在寅退陣」を要求した集会・デモです。

 
 
 
何があっても政権を批判する保守的な人々に加え、政治色の薄い「普通の人」も参加したのです

 
(「『反文在寅』数十万人デモに“普通の人”が参加 『米国に見捨てられる』恐怖が後押し」)。

 
 
 
これが効きました。

 
 
 
辞任の理由として、文在寅大統領は

 
「国民の間に大きな葛藤を引き起こしたことを申し訳なく思う」と語っています。

 
 
 
――文在寅政権にはデモなど無視する手もあった。

 
 
 
鈴置: 確かにそうです。

 
 
 
実際、10月3日の大デモの後にも、曹国法務部長官を切る動きは表面化しませんでした。

 
 
 
それが今になって辞任させたのは、クーデターの恐怖が高まったこともあったと思います。

 
 
 
――クーデターですか?

 
 
 
鈴置: 保守派の大型集会・デモに対抗し、左派も集会・デモを繰り出しました。

 
 
 
国会ではなく、街頭を舞台に力比べが始まったのです。

 
 
 
それを見た韓国メディアは「代議制民主主義が崩壊する」と悲鳴をあげました。

 
 
 
韓国では国論が分裂して議会では収拾がつかなくなり、左右が街頭での勝負に賭けた時、

 
クーデターが起きているからです。

 
 
 
警告を真っ先に発したのは韓国経済新聞でした。

 
 
 
社説「極度の国論分裂…国民を街頭に追いたてた政治、誰の責任か」(10月3日、韓国語版)の

 
ポイントを翻訳します。

 
 
 
・開天節のソウルは都心の光化門からソウル駅まで12車線の大路が集会参加者で埋め尽くされた。

 
 
 
「場外集会としては史上最大」と言われるほどに

 
街頭に集まった人々の主張は「曹国辞退」に集約された。

 
 
 
・5日前(9月28日)に「曹国守護」「政治検察撲滅」を叫ぶ市民が、

 
瑞草洞の検察庁前の道路を占拠したのとあまりにはっきりとした対比となった。

 
この時も多くて10万余人と推定される人波が、

 
検察庁から教育大学駅までの9車線に足の踏み場もないほど満ちた。

 
 
 
・法務部長官の進退に対し意見を表明するため、

 
市民らが広場に群れ集まる「街頭政治」という極端な国論分裂を如実に示した。

 
 
 
・国民が自分の代理人を選んで国会を構成し、彼らが調整と妥協を通じ国事を決定する、

 
成熟した代議制民主主義が機能しなくなっているとの証拠でもあろう。

 
 
 
・与野双方が相手を「積幣」「左派独裁」と決めつけ、

 
一寸の譲歩もなく対決する「政治の失踪」が国民を街頭に追いたてているのだ。

 
 
 

「キーセン・デモ」の後にクーデター

 
――韓国人は2016年の朴槿恵(パク・クネ)退陣要求デモを「民主主義の精華」と誇っていたのに……。

 
 
 
鈴置: 英国名誉革命、フランス革命、米国独立革命と並ぶ「世界4大革命の1つ」と自画自賛しています。

 
 
 
多くの韓国人が「安倍政権をデモで引きずり降ろせない日本人は韓国を羨ましがっている」とも信じています。

 
 
 
文在寅大統領も海外に出るたびに「韓国革命」を誇ってみせます。

 
 
 
褒めてもらったことはあまり、ないようですが。

 
 
 
一方、今回の集会・デモは、

 
左右がそれぞれ普通の人を取り込んで参加人数を競う国論分裂型の街頭闘争でした。

 
 
 
左派が「腐敗した権力と戦う」と音頭をとって、

 
多くの国民を味方に付けた2016年の集会・デモとは完全に異なるのです。

 
 
 
韓国は「クーデターが成功した国」です。

 
 
 
1度目は1961年5月16日に朴正煕(パク・チョンヒ)少将らが敢行した軍事クーデターです。

 
 
 
前年の1960年4月19日の四月革命により李承晩(イ・スンマン)大統領が下野しました。

 
 
 
その後、左右から多様な要求が噴出。後継政権の内輪もめもあって、国が混乱に陥りました。

 
 
 
そんな中、一部の軍人が国の危機を救うとの名分を掲げて立ち上がったのです。

 
 
 
当時、ソウルに住んでいた韓国の人は……。

 
 
 
・四月革命の後はキーセンまでがデモするほど社会が混乱した。

 
左派の学生が統一を名分に北朝鮮との提携に動きもした。

 
 
 
クーデター自体には賛成しない知識人が多かったが

 
「これで混乱が収まる」とほっとする向きもあった。

 
 
 

空気は「過去2回」と似ていた

 
――2回目は?

 
 
 
鈴置: このクーデターで政権を握った朴正煕大統領が、

 
1979年10月26日に暗殺されたのがきっかけとなりました。

 
 
 
16年間も続いた、いわゆる「軍事独裁政権」が突然に崩壊したことで、

 
韓国は民主化に湧き「ソウルの春」と呼ばれました。

 
 
 
ただ、権力の帰趨も不透明になりました。

 
 
 
そこで暗殺事件のどさくさの中、力を溜めていた全斗煥(チョン・ドファン)国軍保安司令官らが

 
1979年12月12日、不安定な政局を収めると称して粛軍クーデターを敢行、成功しました。

 
 
 
韓国経済新聞の社説のどこにも

 
「こんなことやっていたらまた、クーデターが起こるぞ」とは書いてはありません。

 
 
 
でも、少し勘のいい韓国人ならそう読むでしょう。

 
 
 
朴槿恵政権が弾劾により倒されました。

 
 
 
2017年5月から権力を握った左派の文在寅政権は

 
「積幣清算」――過去の弊害を一挙に正す――を謳い、保守勢力の根絶やしに動きました。

 
 
 
朴槿恵、李明博(イ・ミョンバク)の前・元大統領に加え、

 
保守政権時代の最高裁長官まで逮捕しました。

 
 
 
朴槿恵政権の言いなりに動いたとして検事や軍人を捜査。

 
 
 
この中から4人の自殺者が出ています。

 
 
 
「やられる側」に回った保守は当然、死に物狂いで左派政権を倒そうとします。

 
 
 
曹国法務部長官の任命問題も本質は左右の権力闘争です。

 
 
 
文在寅政権は左派弾圧を担ってきた検察から権力を奪う計画です。

 
 
 
さらには新たに設立する公務員監察組織を通じ、

 
検察をはじめとする保守勢力に報復すると見られています。

 
 
 
この「検察改革」を任されたのが文在寅大統領と近い、法学者の曹国法務部長官でした。

 
 
 
検察が自らを指揮する権限を持つ法務部長官の家族の不正事件を捜査し、

 
引きずり降ろそうとする異様な状態に陥ったのも、自分たちが「やられる側」になったからです。

 
 
 
左右はどちらかしか生き残れない最終戦争に突入した。

 
 
 
その戦いの手法が双方の支持者を動員する大衆集会とデモだったのです。

 
 
 
過去2回のクーデターの時と似てきていたのです。

 
 
 

メディアが左右対立に油

 
――そこで韓国経済新聞は社説で「街頭政治を排し、代議制民主主義を守れ」と訴えたのですね。

 
 
 
鈴置: そうです。

 
 
 
しかし、この社説は逆の結果を生んだ――街頭政治を煽ったのです。

 
 
 
「代議制を守れ」と主張すると同時に「それを壊した責任は左派にある」と厳しく非難したからです。

 
 
 
先ほどの引用に続く後半の一部を翻訳します。

 
 
 
・大統領と与党が露骨に「曹国は退陣させず」と宣言した直後に、

 
大規模デモが起きたことにも注目せねばならない。

 
 
 
・無条件に曹国を守る姿勢なら「問題は大統領」との声がさらに高まるだろう。

 
 
国民を街頭に追いたてる政治は与野すべての失敗だが、

 
国政を主導する与党により大きな責任があると見なければならぬ。

 
 
 
韓国経済新聞は「代議制民主主義の崩壊」を指摘しましたが、結論は政権批判でした。

 
 
 
保守の牙城、朝鮮日報も10月4日の社説「常識を裏切った大統領1人が呼び起こした巨大な怒り」(韓国語版)で

 
「民心を街頭での力の対決に追いやった」と、同様の手口で政府・与党を非難しました。

 
 
 
すると政府に近い聯合ニュースが「代議制民主主義の崩壊」を論じつつ、

 
検察の責任を持ち出しました。

 
 
 
「政治が消えた『広場』VS『広場』の対決…極度の国論分裂を憂慮」(韓国語版)です。

 
 
 
10月4日14時49分になって配信したことから見て、朝鮮日報などへの反撃を狙ったと思われます。

 
 
 
この記事は冒頭では「進歩(左派)と保守が競争して数の対決に出れば、分裂の政治を加速する」

 
「与野の指導部が集会やデモを支持層の結束に利用すれば、

 
政治不信を深化し代議制民主主義の危機を生む」などと、

 
中立の立場で「政治を憂えて」いました。

 
 
 
しかし「何か政治的な意図があるのではないかと疑われるほどに検察が

 
(曹国法務部長官一家に対し)過度に捜査し、

 
その結果、政治が保守と進歩に分かれて、新たな対決の街頭政治に転落した」

 
との匿名の与党政治家の発言も引用しました。

 
 
 
要は「代議制民主主義の危機を呼んだのは保守陣営の検察である」と指弾したのです。

 
 
 

大統領は広場の声を聞け

 
――「左右どちらが代議制民主主義を壊したのか」との論争に陥った……。

 
 
 
鈴置: その通りです。

 
 
 
そして、これが街頭政治に油を注いだ。

 
 
 
「責任論」の高まりを背景に、

 
左派の与党は「我々の9月28日の集会には覚醒した国民が自発的に参加した。

 
一方、10月3日の野党の集会は文在寅政権を揺さぶる目的で動員をかけ、人を集めた不純な集会」

 
と決めつけました。

 
 
 
その非難に対抗し、保守はハングルの日で休日である10月9日にも大集会を開きました。

 
 
 
「動員ではこれだけの参加者は得られない」と見せつけたのです。

 
 
 
一方、左派は自らの正当性を訴えるため、10月5日にも集会を開きました。

 
 
 
そして左右両派は10月12日に同じ場所、瑞草洞で集会を開きました。

 
 
 
両派の衝突を防ぐため、警察は5000人の機動隊員を動員しました。

 
 
 
「街頭政治」は激しくなる一方だったのです。

 
 
 
中央日報も10月7日に社説「国の分裂いつまで…大統領がソロモンの知恵発揮を=韓国」

 
(日本語版)で「政界はむしろ陣営間の争いを煽り、自ら代議民主主義危機を招いている」と、

 
「広場の声」による勝負に警告を発していました。

 
 
 
ところが、その3日後の同紙は社説「最低支持率を記録した文大統領、広場の叫び声に耳を傾けよ」

 
(10月10日、日本語版)で、見出しにもある通り、

 
「大統領は広場の声を聞け」と主張したのです。

 
 
 
・大統領は自身の陣営と核心支持層だけ見てはならない。

 
 
 
あのように多くの人が叫ぶ広場の叫び声なら、厳重に受け止めるべきだ。

 
 
 
「街頭政治は代議制民主主義の破壊だ」などと、左右双方を第3者的に批判する余裕がなくなったのです。

 
 
 
「破局」が迫った、との認識からでしょう。

 
 
 
検察は左翼と戦うのに軍は傍観か?

 
 
 
――破局……クーデターが起こるというのですか、今の韓国で。

 
 
 
鈴置: それを期待する人がいるのは確かです。

 
 
 
在野保守の指導者の1人、趙甲済(チョ・カプチェ)氏は9月21日、

 
自身のサイトで「今、検察は左翼と戦っている。国軍は見学だけするというのか?」(韓国語)を

 
書きました。

 
 
 
趙甲済氏は「民族反逆者の金正恩(キム・ジョンウン)勢力と手を組むものも民族反逆者だ」と

 
文在寅政権を非難。

 
 
 
そのうえで

 
「今、検察は左翼、腐敗、反憲法、民族反逆者勢力と戦っている。国軍は見学だけするのか?」

 
と呼びかけました。

 
 
 
ただ、こうした呼びかけがなされるということは、

 
軍がクーデターに動く公算が低い、との認識の裏返しでもあるわけです。

 
 
 
高級軍人もすっかりサラリーマン化して、将官にしてもらえるか、

 
大将・中将で退役できるかに小心翼々。

 
 
 
人事権を持つ青瓦台をヒラメのように見上げてばかり、というのが韓国の定説です。

 
 
 
――では、クーデターは起きない?

 
 
 
鈴置: 「そう見る韓国人が多い」のは事実です。

 
 
 
しかし、「起きない」とも断言できません。

 
 
 
前の左派政権、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時、

 
米軍に「クーデターを起こすから支持してくれ」と持ちかけた韓国の軍人がいました。

 
 
 
関係者が明かしました。

 
 
 
――それに対し米国の軍人はどう答えたのですか?

 
 
 
鈴置: 「前の2回はやむなく追認したが今度はもう、許さないぞ」と言ったそうです。

 
 
 
そう言われてクーデターをあきらめたのか、

 
元々、それほど本気ではなかったのかは不明ですが、この時は不発に終わりました。

 
 
 

朴槿恵政権当時も戒厳令に期待

 
――結局、曹国辞任でクーデターは回避できましたね。

 
 
 
鈴置: とりあえずは。

 
 
 
しかし、左右どちらかしか生き残れない戦いが終わったわけではありません。

 
 
 
法務部長官の首をとって勢いに乗る保守は、政権への攻勢を強めるのは間違いありません。

 
 
 
対立案件は者国問題だけではありません。

 
 
 
 
別のテーマを探して再び街頭に繰り出すでしょう。

 
 
 
デモが大成功したという実績を得たのですから。

 
 
 
――文在寅政権はどうやってしのぐのでしょうか?

 
 
 
鈴置: もちろん、クーデターの動きには神経を尖らせ続けるでしょう。

 
 
 
政権を握るや否や、

 
軍の諜報部門で政治的な行動に出る可能性のある「機務司令部」を解体したのもそのためです。

 
 
 
今後、再びクーデターが噂されるほどに社会が混乱したら、

 
戒厳令を敷いてデモを抑える手もありますし。

 
 
 
――戒厳令ですか!

 
 
 
鈴置: 盛り上がる反政府デモを前に、青瓦台(大統領府)は曹国を辞任させるか、戒厳令を敷くか、

 
との選択肢で考えたと思います。

 
 
 
2016年秋に朴槿恵弾劾デモが盛り上がった際「戒厳令を布告して運動を抑え込もう」と

 
主張した人がいました。

 
 
 
いまだに「あの時に戒厳令という奥の手を繰り出しておけば、弾劾もなかった」と、

 
残念がる保守も多い。

 
 
 
機務司令部を解体したのも、この組織が戒厳令を検討したと文在寅政権が疑ったからです。

 
 
 
今は政権を握った左派が「自分たちも奥の手を」と考えても、不思議はないのです。

 
 

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韓国でクーデターは起こる?歴史的にみても国家背景として起こしやすい?

一九八七年、全国民的な民主化運動であった六月抗争、

 
そしてその要求を受け入れる形で行われた政府の民主化宣言を起点とし、

 
韓国は本格的な民主化過程に進入しました。

 
 
 
この歴史的な事件を踏まえて振りかえると、一九四八年の政府樹立以後、

 
長期間にわたる国家と社会との拮抗関係の中で主な政治変動が現われ、

 
現在に至るまでの一連の流れとしてあらわれています。

 
 
 
この点を明らかにした上で、

 
韓国社会が抱えている課題について考察するために次のような論点をあげて論じてみます。

 
 
 
第一に、韓国においてなぜ社会に対し強い国家が存続しえたのか、という問題であります。

 
 
 
西欧の場合とは異なり、国家より社会が優先するエピステメ(episteme)が少なかった
 
東アジアの文化的な特徴は論外にしても、米ソによる朝鮮半島の分割占領、分断国家の樹立、

 
朝鮮戦争、分断状況の固着という一連の歴史的過程が、

 
強い国家の出現を刺激する要因となったといえます。

 
 
 
すなわち韓国において国家と社会とのアンバランスな関係は

 
冷戦構造や朝鮮戦争を抜きにしては考えられない構造的なものです。

 
 
 
第二に、強い国家の変化に関するものです。

 
 
 
高度の統制力を持っていた強い国家の存在にも関わらず、

 
国家に対抗する社会が徐々に形成されていく過程そのものが政治変動の様相でありました。

 
 
 
したがって韓国の政治変動においては強い国家が存続する状況下でどのように

 
対抗的な社会が形成されつつあったのかを説明しなければならないでしょう。

 
 
 
この問題に対しては、国家権力の正統性にかかわる権威主義体制のジレンマと

 
対抗勢力の登場との相関関係に焦点を当てて論じてみます。

 
 
 
第三に、民主化過程に入ってからあらわれる一連の変化に対する総合的な評価に関わるものです。

 
 
 
一方では政治的な自由化と共に労働者問題を含め市民の権利や人権に関する意識が高まっています。

 
 
 
選挙の定着や地方自治制の復活とともに、

 
市民の立場でものを考えようとする市民運動も出現しています。

 
 
 
反面、政治的なるものを形成していく社会的な文法あるいはメカニズムは、

 
まだ時代の要請に応じられず遅れているところが多いでしょう。

 
 
 
例えば地域間の排他意識に基づいた擬似政治イデオロギーの地域主義がその典型としてあげられます。

 
 
 
これらの問題は長期間続いてきた権威主義体制、

 
そしてそれに根ざして形成されてきた政治的なるものに大きな原因があると考えられます。

 
 
 
 
これらについて社会づくりという観点から批判し、

 
現在、韓国が迎えている新たな課題を考えて見ることにしたい。

 
 
 

強い国家の傾向

 
西欧において国家は、まず社会を前提とし、社会の結社のひとつとして形成され、

 
社会から権限の委任を受け存在しうるものとされています。

 
 
 
これは左派、右派をとわず一般化している近代政治のパラダイムであり、

 
現代のあらゆる国家はこのようなパラダイムを規範として受け入れることによって

 
社会構成員からその役割や機能の正統性を認定されています。

 
 
 
しかし、韓国において国家は社会に対して実際的かつ論理的に優先する存在としてあらわれたのです。

 
 
 
西欧と東アジアとの伝統的文化的な違いはさておき、

 
ここでは一九四五年日本植民地からの解放後の政治史的な側面から検討してみることにします。

 
 
 
まず、過大成長国家論が指摘しているように、

 
韓国における強い国家の傾向を考えるに際して

 
日本植民地支配を抜きにしては論じることができないでしょう。

 
 
 
植民地時代において朝鮮総督府を頂点とした

 
警察、憲兵、官僚組織などが植民地支配機構として存在してきました。

 
 
 
このような植民地支配機構は支配の効率性を高めるためにつくられ、

 
社会に対し抑圧的な統制機関として君臨してきました。

 
 
 
ところが、解放直後の米軍政において米ソ緊張関係を考慮し占領政策の効率性を高めようとした

 
米軍政の政策、そして冷戦構造に頼って政治的ヘゲモニーを握ろうとした既得権層の反共主義が

 
相互作用し、植民地時代に肥大化していた抑圧機構や人員がそのまま温存される結果を招いたのです。

 
 
 
その過程で国家はイデオロギー的な境界を設定し、

 
そこから逸脱する勢力を排除する形で社会に対する優位を占めるようになったのです。

 
 
 
このような状況にさらに決定的な影響を及ぼしたのが朝鮮戦争です。

 
 
 
戦争がどのように強い国家の基盤を作り上げたのかを明らかにするためにイデオロギー、

 
経済、軍事、政治という四つのレベルからその影響を検討する必要があります。

 
 
 
第一に、イデオロギー的な側面からみると朝鮮戦争は

 
二項対立的な言説(discourses)を社会化する原因となりました。

 
 
 
二項対立というのは「善/悪」、「白/黒」のように、

 
相殺することのできない二つの相互排他的な関係をしめす記号学の概念です。

 
 
 
人間の認識活動において二項対立の作用がさけられない条件であるのも事実であるが、

 
二項対立的な認識には多様な可能性として存在している現実を

 
二つの範疇で裁断してしまう恐れがあるとの批判もあります。

 
 
 
さらに問題になるのは二項対立の中に組み込まれている権威主義的で不均等な力の関係です。

 
 
 
例えば「善」「白」「味方」のように二項対立の前項は「中心」「真理」「正常」という意味を

 
持つようになっています。

 
 
 
反面「悪」「黒」「敵」のように後項は「周辺」「虚偽」「非正常」という

 
意味を持つようになります。

 
 
 
このような意味連想によって前項の後項に対する優位主張の語りがつくられ、

 
前項は後項を同化させるか排除することによって自分のアイデンティティを守ろうとするのです。

 
 
 
朝鮮戦争は二項対立的な状況を誰もが否定できない現実として固着させました。

 
 
 
さらに敵に対する敵愾心や恐怖感から味方という範疇が絶対的なものになり、

 
北朝鮮に反対するアイデンティティを持とうとする強烈な慣性を生み出しました。

 
 
 
国家は敵と対峙している現実を危機と規定し、

 
政府に対するあらゆる批判に対して味方を害する行為と規定することによって、

 
社会からのいかなる挑戦をも効果的に管理することができるようになりました。

 
 
 
朝鮮戦争でつくり上げられた二項対立的な言説に乗じて、

 
国家は長期間にわたって社会に対する検閲者、矯正者、征服者として位置付けられたのです。

 
 
 
第二に、朝鮮戦争はベトナム戦争と共に、

 
第二次世界大戦後の最も激しかった戦争と言われています。

 
 
 
三年間の戦争で脆弱な経済の基盤すらも破壊されました。

 
 
 
経済基盤の破壊は、

 
国家に影響を与えるほどのヘゲモニー的な社会勢力が出現しにくい状況をうみだしました。

 
 
 
 
なおかつ戦後の経済再建が米国の援助や借款に頼る形で行われたので、

 
当然ながら政府が配分や管理の混乱やインフレーションの主体となり、

 
国家の位相はさらに強くなりました。

 
 
 
地主階級は戦争のせいで農地改革に対する実質的な補償を受けることができなくなって力を失いました。

 
 
 
また国民の大部分を占めていた農民は戦争中保守化し、政権の支持基盤となりました。

 
 
 
このような社会的ヘゲモニーの空白を国家が占めるようになったのであります。

 
 
 
このような状況は、その後、国家が経済建設の主体として一層権威主義化する背景となります。

 
 
 
一九六〇年代以来、軍部政権下で進められた近代化、産業化政策は、国民経済の安定だけでなく、

 
安保危機から抜け出す方法として経済開発による国力伸長が強調される中で進められました。

 
 
 
権威主義政権は反共主義と経済成長イデオロギーとを結び付けて、

 
国民を経済的に動員しながらも政治的には排除する政策を堅持しました。

 
 
 
また量的な経済成長を執権の正統性を裏付ける素材として活用することによって

 
支配の安定化を図ってきたのです。

 
 
 
第三に、戦争は軍部の位相や社会的な比重を高めました。

 
 
 
戦争勃発当時九万八千人だった軍隊は、二年後二五万、休戦の時には約六三万にまで

 
増強され現在に至っています。

 
 
 
単なる数だけでなく軍の社会的役割や比重にも変化がありました。

 
 
 
何よりも戦争の遂行者としての軍は知識、情報、組織、管理力、教育など、

 
近代的な組織に求められる能力を備えるようになりました。

 
 
 
それと共に戦争の一次的な担当者として危険を引き受けてきたという理由で

 
その社会的な比重も高まりました。

 
 
 
戦争は一応終わったにせよ分断状態が続く状況下で、

 
このような変化は軍部が政治勢力に変わる可能性を意味するものでした。

 
 
 
第四に、軍部の政治勢力化の可能性は一九六一年五月一六日の軍事クーデターとして

 
現実のものになりました。

 
 
 
軍部のこのような行動は李承晩政権の独裁に対抗した一九六〇年四月の学生革命が起きてから

 
たった一年後のことで、一方では李政権とそれに協力しながら既得権を

 
保ちつづけた軍首脳部に対する少壮派将校の反乱であり、

 
他方では学生革命以後の政治混乱や社会的不安定に対する軍部の反共主義

 
あるいは国家主義的な代案でもありました。

 
 
 
 
国内の勢力関係が民主化を推進するのに力不足である場合、戦争を通して膨張した軍部と、

 
国民の間で形成された国家主義的な民族主義とが結合し、

 
非民主主義的な国家が出現しやすいという比較歴史学の命題は、

 
韓国の場合にも現実としてあらわれたのです。

 
 
 
 
 
このように誕生した軍部政権が三十年続く中で、

 
画一的で目的合理的な軍事文化が社会のあらゆる面に浸透するようになりました。

 
 
 
それに軍部出身エリートの天下り先として行政や企業の高位職が提供され、

 
軍隊式の社会になっていきました。

 
 
 
要するに、朝鮮戦争とそれに続く分断状況の固着は、

 
韓国において強い国家の傾向が存続するのにもっとも大きな原因となりました。

 
 
 
朝鮮戦争は李承晩政権の権威主義化だけでなく軍部政権の出現をも準備してくれたのです。

 
 
 
 
理念の保守化や経済的基盤の破壊は自律的な社会の形成可能性を制約し、

 
国家の統制力を大幅に強める要因となりました。

 
 
 
特に戦争の体験に根ざす危機意識は危機管理者としての国家の役割を優先する傾向を生み出し、

 
軍部政権時代にみられるように社会の自律性や多様性に基づいた政治より

 
国家中心の統合や国論統一のための統制機能だけが強調されるようになりました。

 
 
 
社会の従属変数としての国家ではなく、

 
社会を征服していく国家というパラダイムが政治的に正しいものとしての位相を占めると共に、

 
国民基本権の制約、政党政治や議会の歪曲などを通じて政治社会や政治的なるものが

 
深刻に毀損されるようになりました。

 
 
 
強い国家の傾向はこのような基盤の上で維持されてきたのです。

 
 
 

対抗勢力と民主化運動

 
逆説的な側面であるかも知れないが、

 
韓国政治変動のもう一つの特徴は強い国家が存在しながらも、

 
それに対抗する社会が形成されつつあったという点です。

 
 
 
権威主義体制の変動について比較研究をした O’Donnell と Schmitterによると、

 
一般的に権威主義政権は二つの自己矛盾をはらんでいます。

 
 
 
一つは発生的な正統性の問題です。

 
 
 
権威主義政権は、そもそも社会からの同意という合法的な手続きなしに

 
執権延長をしたりクーデターをおこしたりすることによって誕生したものです。

 
 
 
したがって権威主義体制は常に正統性の根拠が問われる政権でもあるといえます。

 
 
 
もう一つの矛盾は正統性問題と密接な関連のあるもので、

 
イデオロギー的分裂症(ideological schizophrenia)といわれるもの。
 
 
 
正統性の問題の是非を回避するために、政権は自らを危機管理者として位置付け、

 
現実を非常に不安定な状況として規定し、

 
危機を乗り越えるためには国民の権利を制限するしかないとの言説(discourses)を動員して

 
権威主義体制の存在理由を力説することになります。

 
 
 
実際に権威主義政権は、

 
当面の危機を乗り越えた時点で民政移譲あるいは民主主義に復帰することを

 
闡明することによって自らを正統化しようとするものです。

 
 
 
しかしこの言説を逆に解釈する場合、もし危機がなくなれば、存在理由が消滅する、

 
ということを意味することになります。

 
 
 
このジレンマ、すなわち実際には権威主義政権であるが、

 
理念的には民主主義の普遍性をまったく否定できないイデオロギー的な分裂症の間隙から

 
対抗勢力が形成されつつある、というのが比較政治論の一般的な説明です。

 
 
 
 
それに加えて、理想であれ実際であれ権威主義への政治変動が起こる前に体験していた

 
民主主義についての知識や経験が権威主義体制の民主化を求める根拠として作用し始めるのです。

 
 
 
韓国の権威主義政権も民主主義や自由という普遍的な価値を

 
全面的に否定することができませんでした。

 
 
 
民主と自由は北朝鮮と区別するために掲げた理念であり、

 
それを否定するのは自分のアイデンティティを自ら否定する結果になるからです。

 
 
 
したがって権威主義政権は、一方では現実が危機であるという言説を使って

 
非民主主義的な措置を正統化しながら民政移譲あるいは民主化を約束するが、

 
他方ではそれを先送りすることによって政権の維持を図ってきたのです。

 
 
 
これが韓国権威主義体制のジレンマであり、対抗勢力の政権批判の根拠でもありました。

 
 
 
とはいえ、国家に比べて極めて弱い立場に置かれていた社会から

 
どのように抵抗運動が起こり始めたのでしょうか。

 
 
 
韓国の場合、抵抗運動は大学を中心とした知識部門からはじまりました。

 
 
 
高等学校や大学が中心であった知識部門は軍隊と共にもっとも近代化された部門でした。

 
 
 
特に大学は、一九四五年解放以来、積極的に西欧的な価値を受け入れ始め、

 
自由、平等、人権、民主などの価値を踏まえて現実を考えようとしてきました。

 
 
 
実際に国民教育においても共産主義批判とセットで自由民主主義が教えられ、

 
知識層は民主主義の理念を身につけるようになりました。

 
 
 
そして、前述のようにヘゲモニー的社会階級の不在も、

 
大学という知識部門が社会の代弁者としての役割を果たすようになった原因でした。

 
 
 
朝鮮戦争をきっかけにしだいに独裁を強めつつあった李承晩政権が

 
一九六〇年四・一九学生革命によって崩壊したのはその象徴的な事件でした。

 
 
 
翌年の五・一六軍事クーデター以後にも学生運動を中心とした知識層は政権批判の牽引車の

 
役割を果たしてきました。

 
 
 
特に学生という存在はもっとも理想主義的な世代で、

 
彼らの属している大学は絶えずに新しい知識が疎通する空間でもあります。

 
 
 
それに、毎年新入生によって人的な資源が安定的に供給されるばかりか、

 
大学キャンパスは全国の主な都市に分散しているから、

 
大学は政権に対する反対運動の拠点でもあり、水平的ネットワークの網目でもありました。

 
 
 
このような要因が重なって、

 
学生運動は社会の代弁者として政権に動きかける役割を果たすようになったのです。

 
 
 
もう一つの対抗部門は宗教部門の中で主にキリスト教の少数派ではあるが、

 
進歩的な教団が中心となった人権運動グループでした。

 
 
 
宗教部門は現実的な権力に服従するのではなくあくまでも普遍的な価値に従おうとする特徴を

 
持った部門であるので、

 
現実的な苦難を冒しながらより高次元的な観点からの現実批判が可能な部門であるからです。

 
 
 
例えば人権問題がそうです。

 
 
 
宗教グループの人権運動が必ず政権に対する政治的な挑戦であるとはいい難いが、

 
結局のところ政治的な批判につながるものであり、一方では政権からの弾圧を避けながら、

 
他方では批判する側の負担を軽減することによって民主化社会運動を育てることが可能でした。

 
 
 
それに宗教組織の持つ世界的なネットワークを意識せざるをえない政府が

 
宗教部門の人権運動にたやすく手を出せなかったという事情も、

 
人権問題を中心とした民主化運動の活性化の背景となったといえます。

 
 
 
このように一九六〇年代から七〇年代にわたる民主化運動において主な牽引車となったのは

 
学生運動や宗教部門の人権運動、そして両勢力が生み出した水平的なネットワークでした。

 
 
 
もちろん軍部政権が推進した産業化政策による労働者階層の増加も見られるが、

 
いわゆる基層民衆が直ちに政治的な勢力として役割を果たしてきたのではなく、

 
むしろ学生運動や宗教部門の運動に支えられながら、

 
民主化運動により体制の掌握力が弛緩した時には、

 
政権に対する潜在的な脅威として存在感を発揮したといえます。

 
 
 
しかし知識人、学生運動、宗教グループ、労働者などの部門が権力的弱者の立場から

 
水平的な関係を作り出し、

 
軍部を頂点とした官僚や産業の垂直的支配ネット・ワークに対抗しつつある過程そのものが

 
民主政治変動の主要な様相であったことには間違いないでしょう。

 
 
 
このような力学によって強い国家に対抗する社会の基盤があらわれ始めたのす。

 
 
 
一九八〇年代の民主化運動は一九七〇年代の運動とは性格が異なります。

 
 
 
一九七二年、維新体制の宣布で独裁化の道を歩んできた朴政権は、

 
一九七九年一〇月、中央情報部長による大統領の暗殺で、突然終わりを告げます。

 
 
 
それと同時に民主化への期待感が盛り上がる中で、全斗煥氏を中心とした新軍部が動きはじめ、

 
翌年五月、光州市民の民主化運動を流血鎮圧して政権を握るようになります。

 
 
 
厳重な報道統制があったにも関わらず、この事件がおおやけに知られるようになり、

 
民主化運動に大きな衝撃や変化をもたらしました。

 
 
 
光州事件で見られるように対抗勢力にとって新軍部政権は思ったより強硬な存在であって、

 
政権に対抗するためには理論的にも組織的にも一層強化されねばならないとの認識が広かったのです。

 
 
 
その結果、一九七〇年代の民主化運動をプチブル的リベラリズム運動であったと批判し、

 
将来の運動は基層民衆に根ざしたもっと根本的な社会変革を目指さなくてはならないという観点が

 
説得力を得るようになりました。

 
 
 
さらに、朝鮮戦争以来韓国軍の指揮権が駐韓米軍に移譲されたことを勘案すると、

 
光州事件当時鎮圧のために特殊部隊を投入することができた背景には、

 
米国の黙認があったはずであるとして、

 
民主化運動勢力の間で反米意識が盛り上がるようになったのも以前の運動とは異なるところです。

 
 
 
一方、中産層と呼ばれる多数の国民が、

 
権威主義体制から徐々に離反していく傾向もあらわれ始めました。

 
 
 
中産層は権威主義政権の推進した経済成長政策の恵沢にあずかった階層であり、

 
政治安定を前提とした経済成長という政府の政策を支持してきました。

 
 
 
しかし長いあいだ権威主義体制が続く中で、むしろ政治安定は期待できず、

 
支配勢力による経済不正や道徳的な欠陥があらわれるにつれて、

 
政権に対する支持を撤回しつつあったのです。

 
 
 
このような変化を促したのが金泳三氏と金大中氏が中心となった野党の活動でありました。

 
 
 
一九八三年末から統治にある程度自信がついた全政権は、

 
学園自律化措置や野党政治家の政治活動解禁など一連の政策転換を通じて独裁政権という

 
イメージを拭い去ろうとしました。

 
 
 
このような変化につれて解禁政治家を中心とする新韓民主党が結成され、

 
文民政治の確立、平和的政権交代、独裁の排除、大統領直接選挙制などを

 
掲げ活発な活動を展開しました。

 
 
 
その結果一九八五年二月に実施された国会議員選挙では二九・四%の得票率で

 
第一野党として急浮上したのです。

 
 
 
選挙革命とも呼ばれる選挙結果を生むまでには、

 
学生運動を始めとする民主化勢力の支援があったわけであるが、

 
選挙の結果は、長期間の権威主義体制に嫌気を感じる国民がかなり増加してきていることを

 
裏付けるものでもありました。

 
 
 
これがきっかけになって野党は大統領直接選挙制を柱とする改憲運動を

 
本格的に展開していくようになりました。

 
 
 
そうする内に、一九八〇年代に入ってイデオロギー的に硬直し国民からの支持を失いつつあった

 
運動勢力が、一九八六年ごろから反独裁民主化を共通の目標として再認識し、

 
民主化を求める広範な勢力と連携することによって、

 
民主化運動は一大転換期を迎えるようになります。

 
 
 
このような民主化運動が一九八七年六月抗争という全国的な抵抗へと発展するようになったのには

 
幾つかの事件がありました。

 
 
 
同年一月、ソウル大学の学生が情報機関に連行され、

 
捜査官から水拷問や電気拷問を受けて死亡した事件に対し、

 
政府が単純なショック死として虚偽の発表をした事実がカトリック正義具現司祭団の調査によって

 
明らかになったのであります。

 
 
 
それに、国民の民主化や改憲の要求にもかかわらず、

 
政権は改憲を拒否する姿勢を崩さなかったので、

 
政権の道徳性の欠如に対して大数の国民は決定的に背を向けたのです。

 
 
 
この事件が引き金になって、

 
大多数の人権運動や民主化運動団体の結合体である「民主憲法争取国民運動本部」が結成され、

 
全国的な対抗運動を広げるようになりました。

 
 
 
その過程で六月、延世大学の学生が警察の催涙弾によって死亡する事件が再び起こり、

 
国民の抵抗運動は頂点に達しました。

 
 
 
結局、国民の民主化要求を押さえることができなくなった政権は大統領直接選挙や

 
民主化措置の宣言を負われ(六・二九宣言)、

 
これによって長期間にわたった民主化政治変動はやっと節目を迎えました。

 
 
 
その後、三ヶ月間にわたる爆発的な労働運動が起こったが、

 
十数年ぶりに実施するようになった大統領選挙の熱気や政府のイデオロギー攻勢によって

 
鎮静化しました。

 
 
 
一二月の大統領選挙では野党の金泳三氏と金大中氏が候補単一化交渉に失敗し、

 
別々に出馬したせいで、

 
全政権の第二人者で全大統領に代わって六・二九宣言文を読んだ盧泰愚氏が当選しました。

 
 
 
慮政権は民主化を実施することを前提として誕生した政権だったので、

 
制限的ではあるが民主化措置を取らざるをえなかった過渡期的な政権でした。

 
 
 
しかもこの時期に前大統領の一家に対する汚職調査が行われたり、

 
地方自治の復活が議論されたり、

 
ソ連や東欧諸国の変化につれて共産圏国家との国交が結ばれたりするなど、

 
韓国社会は大きな変化を迎えるようになります。

 
 
 
一九九二年の大統領選挙では野党の金泳三氏が与党と連合して与党の候補として当選しました。

 
 
 
大統領自身が軍部出身ではないという点で、

 
いわゆる「文民政府」が誕生したのだが、

 
旧勢力との連合という不安定な出発であったので執権当時の改革政策を

 
十分に実現することはできませんでした。

 
 
 
しかしこの時期に地方議員選挙や自治団体長選挙が実施され、

 
地方自治制は完全に復活するようになります。

 
 
 
また一九八〇年代の民衆運動とは異なる市民運動が新しく展開され始めたのもこの時期です。

 
 
 
続いて一九九七年の選挙では野党の金大中氏が当選し、

 
ようやく与野党間の政権交代が実現するようになり現在に至っています。

 
 
 

「政治的なるもの」の交錯と可能性

 
今まで韓国政治変動の力学について国家と社会との関係を中心に考察したが、

 
ここでは一九八七年以来、

 
政治的なるものにどのような変化が起こったのかに重点をおいて

 
民主化以後の韓国政治の問題について論じてみます。

 
 
 
ふりかえってみると、一九八七年を起点として韓国政治は大きく変わってきました。

 
 
 
その変化については、さまざまな解釈ができるだろうが、一九八七年の意味は、

 
何よりも国家権力の正統性が選挙を通じて解決されるようになった点にあります。

 
 
 
つまり社会からの抵抗に押されて民主化の入口に入った以上、

 
その道を引き返すのは社会的に許されないだけではなく、

 
何ら得るものがないという認識が定着したのです。

 
 
 
とは言え、一九八七年の意味が単なる手続き的民主主義の定着に限られているわけではありません。

 
 
 
むしろ国家の正統性は、

 
社会に根差すべきであるとの共通の認識が生まれたところに根本的な意味があるといえるでしょう。

 
 
 
すなわち国家の影に隠れてきた社会の意味を再発見する契機であったのです。

 
 
 
しかし権威主義体制の下で形成されてきた「政治的なるもの」の慣性も根強く残っているので、

 
変わったものと変らぬものとの交錯現象も見られます。

 
 
 
この点を明らかにするため、

 
まず権威主義体制から成り立った「政治的なるもの」とは

 
いったい何かを考察する必要があるでしょう。

 

権威主義体制における政治

 
権威主義体制によって政治社会や公共圏的な社会空間が深刻に歪曲された状況下で、

 
政治は二項対立の戦争のような展開を見せてきました。

 
 
 
前述のように正統性危機に逢着した支配勢力は朝鮮戦争や分断状況から

 
成り立った二項対立を国内政治に利用し、反対勢力に対しては体制の裏切り者、

 
国家の敵という非難を動員して、抑圧や排除する対決政策で一貫してきました。

 
 
 
したがって政治は自ら国家と同一化した政権が異質的に思える存在のすべてを

 
恣意に他者と規定し、排除していく過程にすぎなっかたのです。

 
 
 
「政治的なるもの」の観点からみれば、

 
権威主義体制がもたらした最も大きな社会的損失は政治のもつ多様な性格の中でも、

 
戦争のような二項対立的性格だけを浮きだたせたところにあるといえます。

 
 
 
なぜならば政治の場を独占した権威主義政権の政治スタイルは社会全体に影響し、

 
例えば対抗勢力もやはり支配勢力の駆使する戦争の文法に慣れなくては

 
生き延びることができない状況に置かれるようになったからです。

 
 
 
抵抗運動は権威主義体制を悪として規定する言説の実践によって

 
自らのアイデンティティを維持してきたが、国家権力との対立が尖鋭化することにつれて、

 
敵の正統性を否定すると同時に、抵抗運動の強度や求心力を強めるように、

 
さらに強力な修辞的武器が必要となりました。

 
 
 
このような傾向の中で支配勢力の打倒や社会の急激で根本的な変革だけが

 
有意味な政治行為であるかのような認識が対抗勢力の中でヘゲモニーを握るようになったのです。

 
 
 
政治的意味の生産を主導してきたこのような言説実践はみな「同一者/他者」、

 
「主体/反主体」、「味方/敵」という二項対立的な差別化(区別化)体系を

 
基本的な仕組みとしているものでした。

 
 
 
勿論、M. Foucault や M. Edelman が言ったように、
 
政治にはある程度、戦争のような文法が内在しているのをまったく否定することはできません。

 
 
 
しかし市民社会が発達していて政治が市民社会に根ざしている場合、

 
ある政治言説が二項対立に基づいていても、その社会全体が二元化しているとは言い難いです。

 
 
 
このような社会は政治的争点の震源地が多元的かつ多層的であり、

 
一つの大きい争点がその社会の問題を総体的に反映しているとは限りません。

 
 
 
生活の多様な側面から生じる問題の多様性があるから、

 
特定の認識が社会全体の対立や葛藤につながるわけではないからです。

 
 
 
しかし韓国のように国家権力の正統性そのものが問題になる場合、

 
そして国家と社会の対立を前提として社会が成長しつつある社会の場合、

 
二項対立関係がその社会の総体的な亀裂としてあらわれるようになりやすい。

 
 
 
それに朝鮮戦争によって朝鮮半島が地理的な二分化の上で理念的にも二分化され、

 
さらに支配勢力がこの二分化の現実を国内政治に再生産してきたので、

 
実際の政治は勿論、「政治的なるもの」の生産基盤である象徴政治の場も

 
やはり二分化され特定の政治勢力の差別化体系そのものが

 
社会全体の二項対立的差別化体系を意味する状況に突入することになったのです。

 
 
 
したがって、政治的行為は社会的な合意形成あるいは公論形成とは関係なく、

 
ひたすら敵という範疇を創出し敵の倫理的根拠を罵ることを意味するようになりました。

 
 
 
「政治的なるもの」の意味生産を主導してきたこのような言説実践は

 
まずは権威主義体制によって引き金が引かれて権威主義体制の抑圧かつ閉鎖的な言説状況と共に

 
各々の政治言説に影響してきました。

 
 
 
したがって政治的なるもののほとんどが戦争的な文法を

 
反映せざるを得なかった現実を生み出したのです。

 
 
 
その結果、政治的な意味生産の場では政策指向的な討論より区分、排除、誹謗のような

 
分離や差別化の実践が優先するようになりました。

 
 
 
社会成員の生活から生じる多様な問題は国家権力という争点によって周辺化されたり

 
総体的な理論あるいは中心を指向する記号の権威によって抑圧されたりしながら

 
政治の全面にあらわれることができなかったのです。

 
 
 
要するに、排除すべきな他者性の境界を絶対化した二項対立的な言説実践によって

 
社会の意思疎通的合理性や社会的論議性の地平はさらに縮小させらたといえます。

 
 
 
権威主義体制によって歪曲された社会的意思疎通構造や戦争の文法の突出した

 
象徴政治の空間の中で、相互性に基づいた討論や合意形成の実践は

 
誹謗や分離の実践によって蚕食されたのです。

 
 
 
意思疎通的合理性は非効率の領域に押しのけられその代わりに

 
実用的な意思決定のための道具的合理性が政治的な意味形成の過程を

 
支配するようになったといえます。

 
 
 
一九八七年以後、権威主義体制から政治的自由化過程に移っていくにつれて

 
政治に見られてきた戦争の文法も少しずつ消えていったが、

 
このような変化が権威主義体制の中で傷つけられてきた政治的なるものの回復を

 
意味するものではありませんでした。

 
 
 
長期間続いた権威主義的な言説実践が社会の意思疎通的合理性に基づく

 
公論形成の機能を麻痺させてきたからです。

 
 
 
それは地域感情の擬似政治イデオロギー化という現象に如実に表れています。

 
 
 

地域感情の政治的動員

 
そもそも地域感情というものは、

 
地域間の偏見あるいは全羅道に対する差別意識の形で存在してきたのだが、

 
これが政治イデオロギーとして登場したのは一九七一年大統領選挙の時からです。

 
 
 
当時、与党の朴正煕大統領の選挙運動陣営は野党の有力な大統領候補である

 
金大中氏を意識し地域感情を利用して支持を呼びかけたことが引き金になりました。

 
 
 
当選後朴政権は選挙を通して長期執権するのはあまりにもコストが高いとして、

 
翌年いわゆる一〇月維新を断行し大統領の直接選挙を廃止しました。

 
 
 
そのため地域感情が選挙政治に利用されることはなくなったが、

 
その裏面で地域感情は一層深くなりつつありました。

 
 
 
なぜならクーデターで執権し、さらに独裁化に走りつつあった朴政権は

 
前述のような正統性の危機に逢着し、権力の安定を図るため地縁を十分に活用したからです。

 
 
 
例えば政権の最大の支持基盤である軍部要職に慶尚道出身をたくさん配置したり、

 
国土開発政策においても偏重した開発を行ったりすることによって

 
地域への利益配分と政権支持が結合した形の政治を行ってきたのです。

 
 
 
それに全羅道地方は農地が多く険しい山があるせいで、

 
朝鮮戦争を前後にしてゲリラ戦が行われたこともあって、

 
全羅道に対する偏見がさらに深まってきたと言えます。

 
 
 
一九八〇代全羅道光州市で起こった民主化運動に対する新軍部の流血鎮圧も

 
全羅道民の被害者意識をさらに悪化させる要因となりました。

 
 
 
しかしこのような地域感情は国家権力の正統性問題、

 
つまり独裁対民主という大きな対立によって押さえられ、

 
政治的な亀裂として表面化することはなかったが、

 
一九八七年以後、独裁対民主という亀裂が消えるにつれ、

 
その空白を埋めるかのように急激に表面化したのです。

 
 
 
勿論、一九八七年の選挙で金泳三氏や金大中氏が分裂し大統領の座を争ったことや、

 
一九九二年の選挙で金泳三氏が与党と合党した際に金大中の当選を憂慮した勢力が

 
地域感情を選挙戦略として駆使したこと、

 
そして政権から疎外されてきた全羅道の人々が金大中氏を絶対的に支持したことなどが原因で

 
地域主義が本格化したといえます。

 
 
 
しかし地域感情という政治亀裂は構造的な原因から作り出されたものであって、

 
むしろ権威主義体制の生み出した社会的損失であると規定せざるを得ないでしょう。

 
 
 
何よりも権威主義政権によって社会的意思疎通が封鎖され合理的な意思形成の可能性や経験が

 
まったくない状態、言いかえれば国家権力による公共圏の植民地化が長期間続いてきた結果、

 
政治の本来の機能が働かなかったからです。

 
 
 
さらに一方は国家権力に執着し、他方は国家権力を獲得しようとしてきたのが

 
政治の基本な対抗図だったので、政治的なるものが国家権力の獲得の問題に限られてしまい、

 
相手に対する誹謗を通じて自分の正統性を確保しようとするもの以上には

 
政治の成熟が期待できなかった状況も大きい原因でした。

 
 
 
一九八七年以後、制度的には民主化しつつあったが、

 
このような慣性がそのまま残るようになって、

 
あらためて地域感情という修辞的武器を見つけ出し、

 
これを政治道具化したのではないかと考えられます。

 
 
 
政治本来の機能がまったく働かなかったせいで、

 
政党の間に理念や政策の差を見付け難くなった状況下では、

 
地縁に頼って政党や政治家を支持するのは

 
それなりの合理性を持っている選択なのではないかとの意見もないわけではありません。

 
 
 
しかしこのようなパターンは地縁以外の争点を見逃させるプリズムとして作用し、

 
政治的なるものをさらに歪曲しているという批判を避けることはできないでしょう。

 
 
 
何よりも「わが地域/他の地域」という二項対立を政治言説として効果的に使えるという現実は、

 
韓国政治において意思疎通的合理性の地平がどれほど狭くなったのかを裏付ける証拠であると

 
言わざるを得ないでしょう。

 
 

新しい可能性

 
反面、一九八七年以後の変化の中で明るい面もないわけではありません。

 
 
 
もっとも注目すべきなのは、民主化政治変動の中で民主主義や人権などを

 
つよく求める批判勢力の社会空間が広がり、

 
それが軍部、官僚、産業の権力を牽制できる社会の形成に繋がっていると考えられます。

 
 
 
もう一つは市民運動の活発な展開であるといえます。

 
 
 
一九八〇年代後半から一九九〇年代にかけて

 
環境、経済正義、参加民主主義、交通、福祉、教育など市民の生活に密接な問題に

 
取り組んでいる市民団体が続出しています。

 
 
 
その背景としては二つの要因をあげることができるでしょう。

 
 
 
まず、ソ連や東欧諸国の民主化です。

 
 
 
これは従来の中央集権型の社会主義国家が失敗を告げたことを意味するもので、

 
韓国の知識社会においても第三の代案として市民社会を再発見するきっかけになったのです。

 
 
 
もう一つは、韓国社会も既に労働者階級を中心とする単純な図式では説明できないほど

 
多元化した構造を持つようになったという現実です。

 
 
 
このような省察を踏まえて一九八〇年代の民衆という概念を代替する市民という概念に

 
注目が集められ市民運動が拡大していくようになりました。

 
 
 
勿論、市民運動とはいえ草の根レベルでの市民活動であるとは言い難い点がないわけではないが、

 
専門家運動であれ中央政治に関わる運動であれ、それが従来とは違う形の政治、

 
すなわち参加型政治へ転換するのに必要なモデルや言語づくりの試みであることには間違いない。

 
 
 
もう一つの可能性は地方自治制の定着にあると考えられます。

 
 
 
そもそも地方自治は一九四八年政府樹立と共に出発したのだが、

 
地方自治のための地方自治制というより政権延長あるいは中央の政治家が地方を

 
掌握するための手段として利用された側面が多いのです。

 
 
 
それさえも軍部政権の樹立後には、

 
地方自治が韓国の現実には相応しくないので南北統一以後に実施を延期するという

 
特別措置法ができ、地方自治法はあるものの実質的な機能は停止されたままでした。

 
 
 
そうするうちに民主化過程に入ってから地方自治復活の議論が始まり、

 
一九九一年には地方議会議員選挙、

 
一九九五年には地方自治団体長選挙が行われやっと地方自治制が定着するようになりました。

 
 
 
現在、地方自治によって開かれる新しい政治への期待は高まっているが、

 
多くの現実的な問題を抱えています。

 
 
 
例えば、地方自治体の自立性の欠如や草の根保守主義、住民参政権の不備などが

 
課題として取り上げられるでしょう。

 
 
 
にもかかわらず地方自治の実施が韓国政治に示唆する意味は大きい。

 
 
 
第一に、今まで中央の政治舞台を中心に行われてきた政治から住民が生活を営んでいる地域に

 
根ざす政治に変わらなければならないとの認識が広がっています。

 
 
 
住民が地域という空間を通じて政治に参加しながら政治に対する統制力を拡大するのが

 
真の民主主義であるという観点が説得力を得つつあります。

 
 
 
第二に、行政に対する認識も変わりつつあります。

 
 
 
行政は統治機関でありそれに服従するか自分とは関係のないままのほうがいいとの認識ではなく、

 
行政は住民が生活を豊にするための道具であるとの認識が広がっています。

 
 
 
行政側にも自ら住民の立場に立ってものを考えようとする傾向が生まれつつあります。

 
 
 
これらの変化が日本の住民自治実験のようにシステムづくりとして定着しているとは

 
まだ言い難いが、地方自治の活性化と共に生活に根ざした政治ができ、

 
市民社会も生活の基盤である地域を中心に形成される可能性が生じていると考えられます。

 
 



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韓国でクーデターは起こる?GSOMIA破棄など日韓関係のもつれが原因?

https://twitter.com/eSpHpmjgIyhIrDY/status/1184001806612889601
金沢工業大学虎ノ門大学院教授の伊藤俊幸元海将は

 
「文氏が通商から安全保障まで反日カードを切ったのは、あまりに合理性に欠ける。

 
これまでも、文氏は北朝鮮のスパイを摘発する部局をつぶすなど、

 
『従北』のむちゃくちゃな対応を見せてきた。

 
日米韓3カ国の安全保障の基盤が揺らぐのを危惧する現役の軍人らの生の声も届いていないようだ」と解説。

 
 
 
続けて、「韓国軍にとり、北朝鮮のミサイル発射時には、特に着弾情報は自衛隊頼み。

 
文氏の判断は、情報担当部局には大迷惑な話なのだ。

 
情報は『収集→分析→評価→配布』の流れをとるが、今後は米軍が日韓両国に相互に情報を渡す

 
『配布』の場面で機密情報を一部、加工し、渡す作業が煩雑になるなど、

 
3カ国の連携に支障が出るだろう」としました。

 
 
 
日本政府はどう対応すべきか。

 
 
 
伊藤氏は「日本は韓国の出方を静観すればよい。議論するだけムダだ。

 
激変する国際情勢に備え、こういうときだからこそ、憲法を改正し、

 
自衛隊の存在を明確に憲法に位置付けるべきだ」と強調しました。

 
 
 
かつて朝鮮人民軍と対峙してきた元韓国国防省北韓分析官で、

 
拓殖大学主任研究員の高永チョル(コ・ヨンチョル)氏は「文氏は想定外の行動に出た。

 
政権への支持率低下を、反日をあおり、挽回したいとの思惑があるようだ」と分析。

 
 
 
韓国軍は文氏の判断をどうみているのか。

 
 
 
高氏は「現役の将官らは100%近くが、『まさか』と失望しているはずだ。

 
軍人は敵(=北朝鮮)と戦い、勝利するのを目的にしているが、

 
『このまま北朝鮮に韓国が飲み込まれるくらいならば』と、正義感の強い一部の軍人たちが、

 
政権の指導者に政変(クーデター)を仕掛ける公算がより大きくなった」とみています。

 
 
 
その上で「退役軍人団体らも文氏に猛抗議し、弾劾を訴えるデモが今後、

 
激しさを増すのは確実だ。

 
韓国に在韓米軍を置く米国側からの圧力もかかり、

 
協定破棄を見直すべきだとの韓国世論が喚起され、『文降ろし』につながる可能性が出てきた」

 
と語りました。

 
 

韓国でクーデターは起こる?北朝鮮寄りの政治で日米から離反に韓国民が疲弊?

https://twitter.com/KatoMatuo/status/1168679335596679168
日本政府の輸出管理強化に逆上して報復措置を振りかざし、

 
ついには米国の要請で締結した日本との軍事情報包括保護協定(GSOMIA)まで

 
破棄してしまった韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権。

 
 
 
条約も国際社会の常識も守ろうとしない見境のなさに、

 
日米で「韓国無用論」が広がっていると国際投資アナリストの大原浩氏は指摘。

 
 
 
日韓問題は連日メディアで騒がれていて、

 
「韓国の異常性」は良識ある日本人のコンセンサスになった感があります。

 
 
 
これまでにも述べてきているように「韓国は日本のストーカー」なのです。

 
 
 
また、日本政府の韓国に対する「戦略的放置」=「断韓」という施策が、

 
「輸出管理」も含めて、韓国を窮地に陥れています。

 
 
 
これまで、政治家や外務省のふがいなさもあって、

 
とんでもない言いがかりに無言で耐えてきた多くの日本人にとっては

 
溜飲が下がる思いなのではないでしょうか。

 
 
 
日本は制裁発動などしておらず、単なる「輸出管理」でしかないのに、

 
右往左往している文政権の姿は哀れですらあります。

 
 
 
それでも、なぜいまだに文政権が強気の姿勢を崩していないのでしょうか。

 
 
 
韓国の歴代政権は、外側に日本という敵をつくることによって国民を団結させてきたから、

 
いまさら「本当に悪いのは韓国でした。ごめんなさい」などと国民に伝えたら、

 
政権は転覆しかねないのです。

 
 
 
左派で反日色が強い文政権はなおさらです。

 
 
 
それでなくても、退任後は悲惨な末路をたどることを繰り返してきたのが韓国の大統領です。

 
 
 
トランプ米大統領も韓国内の良識ある保守派による「クーデター」を待っていてもおかしくない。

 
 
 
北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が短距離ミサイルを

 
繰り返し発射しているのにも関わらず、

 
トランプ氏が鷹揚に構えているのは、今後の朝鮮半島のコントロールにおいて

 
正恩氏が重要だと考えている証拠だと思われるが、文氏を必要としているような様子はうかがえません。

 
 
 
これに対し、「従北」であるだけではなく

 
共産主義中国の意のままに動く文政権は既に見限られていると考えられます。

 
 
 
あくまで一つの推理にしか過ぎないが、現在の韓国の状況では、

 
韓国内の保守・良識派による「軍事(無血)クーデター」を米国が陰で支援する

 
(諜報活動は失敗しなければ、絶対に明らかにされない)ことも十分あり得ます。

 
 
 
米国が支援しなくても、良識ある韓国人は自国の状況を理解しているから、

 
文政権打倒の動きは強まるでしょう。

 
 
 
日本ではあまり報道されないが、

 
15日の光復節に光化門広場で行われた「反文政権」デモにも数万人以上が集結したとされます。

 
 
 
米国の忠告を無視して、GSOMIAを破棄してしまった文政権は

 
「無用」と考えられているであろうから、無用なものを入れ替えるのは極めて合理的な行動です。

 
 
 
そうなると、「無用」な国から米軍とその家族が撤退し、

 
日本海を反共防衛ラインにする選択も十分出てくるでしょう。

 
 
 
クーデターでも、国民の選挙でも構わないのだが、

 
文政権以外にバトンタッチすることが緊急の課題といえます。

 
 
 
朝鮮半島情勢がアフガニスタンのように泥沼化すれば、

 
北朝鮮の「核兵器」の問題がクローズアップされることも考えられます。

 
 
 
そこで「超ウルトラC」として登場する可能性があるのが、

 
米連邦捜査局(FBI)が米国で保護しているとされる、金正男氏の息子、金ハンソル氏です。

 
 
 
正恩氏に圧力をかける意味でもキーパーソンとなることも考えられます。

 
 
 
文政権との共通性を指摘されるのが日本の旧民主党政権時代だが、

 
現在韓国で起こっている惨劇が日本で起こらなかったのは、不幸中の幸いだといえます。

 
 
 
旧民主党政権同様、文政権も政権に都合の良い情報ばかりを、

 
左派の新聞・テレビ(つまりほとんどのメディア)と組んで国民にたれ流し、

 
操ろうとしているのです。

 
 

今回のまとめ

 
今回は、韓国でクーデターは起こる?

 
 
 
歴史や国家的背景から原因と可能性を予想!

 
 
 
などについて見てきました。

 
 
 


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